セーラー世代によるシスターフッド元年 素人女性誌ウォッチャーによる2022年ワーキングマザー誌短評

 

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私のブログの中では、アクセスいただいている部類に入る、素人女性誌ウォッチャーのシリーズ。2019年から1年に1本ずつ書いてきました。

 

▼2021年

kurihashi64.hatenablog.com

▼2020年

kurihashi64.hatenablog.com

▼2019年春

kurihashi64.hatenablog.com

▼2019年

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全部で4本、こちらを含めると5本目になりますが、こちらを最終にしようと思ってます。

 

なぜなら最近、こう、なんというか、マテリアルガールを卒業したんですよ私。物質的な豊かさよりも、スピリチュアルとか無農薬野菜とか農業に興味があって。いや、嘘です。

 

 

 

本音はこうです。

「子どもの数学の成績よりも、着たいワンピのことを考えたい!」というキャッチコピー(コラではなく、れっきとした光文社STORY2022年7月号の表紙)。

これを私流にアレンジするなら「子どもの算数の出来より、着たい着物コーディネートを妄想したい!」といったところでしょうか。

 

とにかくコロナ禍を経て、自分のわがままボディがふくよかさを増したこと、健康をすこしばかり損なった経験、出勤状況に比してオフィスカジュアルの服が有り余っていること、かといって少し気張ったおでかけシーンがぐっと減ったことによりハレの服が必要ない状況、そもそも服に費やす予算減り、そしてもともとミニマルファッションが好き…など複数の要素が功を奏してしまったのでしょう、すっかり洋服や身につけるものへのあつーい気持ちが平常体温まで冷めてしまいました…。

 

かといって、衣服にかけてる予算がそれほど減ってない(なぜだろう…自問)のは、アウトドアブランドのジャケットやギアを買っていたり、和装小物を買っていたり、娘のものを買ったりするからなんですよね。より正確に言うと、興味のあるジャンルがvery等の女性誌に掲載されてるもの、シーン毎にふさわしいおでかけワンピースや学校に行くとき素敵に見えるママのファッション、的なものから離れはじめた…というのが大きいです。

あとはVeryの誌面に登場する女性が、世代ひとつ下になりはじめたって現実問題もありますね。私は小室哲哉およびつんくアムロちゃんエビちゃん世代なので、おニャン子にしろAKBにしろ坂道系にしろ秋元康が関わったアイドルプロジェクトの方が出てきてもあまりそそられない、というかVeryという雑誌のターゲット年代から外れたのをヒシヒシと感じます。

 

私の場合、自分の興味の範囲内のウォッチ対象としてブログ記事を書いてるので、それが他のものに移り、また自分がターゲットでない雑誌はそれほど重くチェックしないので、書けるほどの情熱と分量が出せない、という現実的な事情もあってブログには書いてなかったのです。

 

しかしながら、まぁ少なくとも、今回の記事に関してはあつい気持ちで書きたいことがあるんですよ。前置き長い。

 

はい。それは、ほぼ初めて女性誌に登場したんじゃないでしょうか、Veryが裏テーマ的にかかげていると思しきシスターフッドです。

ブラザーフッドじゃないですよ、マリア様に連なるシスターでもないです、すこし女性運動で手垢がついた言葉ですが、この記事ではシスターフッドは「女性同士のゆるやかな連帯、助け合い」を示すものとしてお読みいただければ。

 

時は1992年、セーラームーンがアニメ放映開始されたのを覚えてますか?

話は飛躍するのですが、つながりますのでしばし耐えてください。

漫画自体は「なかよし」に連載され、アニメは1992年から1997年まで放映されました。今ではプリキュアはじめ当たり前の美少女アニメですが、戦う少女達ってそれまでは美少女仮面ポワトリンがせいぜいだったんですよ。

個人的な思い出としては、アニメ放映第1回を家で見てたら「なにこれ?こんなの見てるの?」と10歳上の姉に煽られたのを思い出します。それぐらい、世代によっては受け入れがたい、挑戦的な作品だったように思います。

一応王子様(タキシード仮面様)はでできますが、基本的に、中学生の女の子達が、仲間と力をあわせて悪の組織と戦う話です。男の子メインの中のにぎやかし要因としての女の子でもなく、魔法やファンタジーに振り切ってもいないし、実際戦闘で怪我したりすることもある武闘シーンもあった。

自分達で決めて、自分達で戦う女の子。

そんで92-97年のその頃、オタク属性は秘すべき趣味だったので、今のプリキュアに群がる「大きいお友達」(男性の女性声優オタ)もいるにはいたけど、もっと密やかに良識をもって活動してらしたようで、メインターゲットである女児のセーラー戦士達への憧れをぶち壊すようなことはしてなかったわけです。1989年にシリアルキラー宮崎勤氏が世を騒がせていたので、とてもそんな公にできるご趣味でもなかった…というのが現実ですが

※ちなみにエヴァのアニメ放映は1997年

 

アニメ放映当時、セーラームーンに熱狂した世代は、80年代後半から90年代初頭にかけて生まれた子達なので、今は30代、ずばりVeryの2022年の購買ターゲット世代にあたります。

 

遡りますがVeryのカバー(表紙)モデルは、井川遥(1976年生まれ)を経て、その後読者モデル出身の滝沢眞規子(1978年から)が3年間つとめてその後「Navy」というVery本誌の別冊扱いの新雑誌に専属モデルとして移っており、2019年12月号からは本職のファッションモデルである矢野未希子(1986)がつとめていました。古くは「基盤のある女性」と、家庭あり子持ちを雑誌の購読層に掲げていたVery としては初の、お子さんがいないカバーモデル矢野未希子の起用ということで2019年もろもろ驚きもありましたが、その後2021年12月号をもって彼女は2年間のカバーモデルを終了されました。

 

次のカバーモデルは誰かしら?と思いつつ、ウォッチャーとしては「シンマイさんが妥当なのに…、とはいえ経営者という本業のある人だもの雑誌撮影に拘束されるのは無理だろうな…」と素人目に分析してたものです。

その後、2022年1月号にシンマイさんが登場したときはびっくりしました。

その翌号である、2022年2月号のカバーモデルが東原亜希さんで、さらに2度びっくり。

その後、やっと事情が飲み込めたのですが、シンマイこと申真衣さんと、東原亜希(1982)が二人体制で、交互に表紙モデルを務める、というとてもイレギュラーな、そして働くお母さんという当事者目線では実に合理的な座組みをVery編集部が採用した、ということです。

いやー画期的!

https://veryweb.jp/column/333706/

これは、これまでの表紙を務める専属モデル(Veryの表紙を飾るモデルは競合他誌の表紙を務めることがこれまでありませんでした)に、憧れをもたせられる豊かな女性像を象徴させていた女性誌の常識を大きく変えた方針転換だと思います。

というか、専属モデルを要するぐらいの規模だった媒体として、ワンアンドオンリーであるからこそ下さなければならなかった決断とも言えるのでしょう。

シンマイさんに本業の責任の重さゆえにモデル業へアサインする時間的上限や制約があったのでしょうし、東原亜希さんは年齢的にVeryのターゲット年代ギリギリであるものの、四児の母としてだけではなく、夫である井上康生さんと良き夫婦、良き親としてメディアや媒体に出られる面や素直な語り口なども魅力的です。

候補を一人に絞りきれなかったのか、どうしても起用したいシンマイさんの条件を飲んだ形なのか編集部の思惑はうかがいしれませんが、結果としてダブル表紙モデル体制は、非常に現代的。なおかつセーラームーンを見て育った世代にも「お互いを支えあうシスターフッドのナラティブな面も含めて、読者に響いたのではないでしょうか。

 

1970年代なかば、「セーラー服を脱がさないで」と男性が書いた歌詞を、素人っぽさが売りの女性アイドルが歌うという時代も存在していました。そんな中1991年からなかよしで連載開始し、セーラー服は客体化されたコスチュームではなく、自分達の体の延長戦上であり、それを纏ったまま戦うことも愛することもできるのだ!とマンガで少女達に示した竹内直子先生の、なんと素晴らしいことでしょう。

あまつさえ、セーラーウラヌスである天王はるかを原作通りに登場させ、緒方恵美の声でもって受肉させてその姿をみちるさんと一緒に地上波に示したアニメ製作陣の偉業に、心から敬意を表したい(早口)。

昔から「女の嫉妬はコワーイ」と女同士の関係を嫉妬などの単純な感情で凝り固まった姿で取り上げられ続けてきた、これまでのフィクションやドラマの中と対比して、セーラー戦士のように、お互いを助け合って現実に対処する、そういった世代が実際に出てきました。

 

アラフォーの私は感無量です。

 

2022年に公開された、山内マリコの「あのこは貴族」の中でも、主人公の女性二人は、一人の男性をめぐって交錯しますが、嫉妬ではない、それぞれの道を指し示してくれました。

時代はそのように、私たち女性にとってよい方に動いている、動き続けている人達がいる。そういった希望を与えてくれます。

ありがとう、Very。

30代の私を支えてくれて。

たぶんもうターゲット外だけどこれからは自分ごとではなく、娯楽として、次の世代の希望として、女性誌を読み続けます。