東電OL事件を描いた2003年「グロテスク」(桐野夏生)を2023年に読む理由/ネタバレしかしない

このブログはそんなに全体のアクセス伸びてないのですが、なかには息が長くほそぼそと読まれているものもあり、そのうち一つがドラマ「ロングバケーション」のレビューです。

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90年代に作られたものって、良くも悪くも今webに残ってないので、そういう意味で懐古的な文脈でネットの海を漂った方々が流れ着いてアクセスしてくれてるのではないかと思ってます。ありがたい。

 

ロングバケーションが放送された96年といえば、オウム事件がまだ色濃い影響を社会に与えているなか、初代ポケモン(サトシ・ピカチュウ)のアニメ放映開始があり、薬害エイズ住専問題といった社会背景にくわえ、文化的にはたまごっちや、アムラーやルーズソックスなどの流行がありました。

翌年の97年、2月にセーラームーンの放映が終了し一時代の終焉をむかえます(個人的な感傷)。

東電OL事件は同じ97年3月に起こった事件ですが、同時期に酒鬼薔薇聖斗事件が春先から夏前までセンセーショナルに取り上げられていて、私はほとんど当時のことを覚えてません(まぁ私も犯人も同じく1982年生まれの当時14歳だったということもあります)。

 

今回取り上げるのは、その97年に起こった東電OL事件を下敷きに、フィクションとして2003年に刊行された「グロテスク」という作品です。

 

私は20代前半で読んでるはずなのですが、ちよっと機会があって2023年に読み直してみたら、全然、物語を理解する解像度が違ってました。歳をとるってこういうことか!と。

 

いやー、コロナ禍で源氏物語を角田版で読み直してみたら、「え、若紫って10-12歳で18歳の源氏と出会ったのか」「紫の上って外戚政治全盛の時代に、子なしで正妻扱いだったの?破格じゃん!しかも実家との関係悪くて夫の源氏に依存するしかない構図とか辛すぎ…」「光源氏41歳で、15歳の女三の宮降嫁だと?くるっとる!」「紫の上、亡くなったの40手前?出家したいと望んでたのに晩年が気の毒すぎる…」とまあ、若い頃に読み込んだはずなのに、発見の連続です。

主要な登場人物の歳を自分自身が超えて初めて分かる、若さゆえの過ちやイキり、老いてもさして変わらない人間性など、ほんとにすごい読書体験でした。盛者必衰。

 

話を「グロテスク」に引き戻しますと、東電OL事件の被害者である女性は、1997年(平成9年)に亡くなった当時、39歳でした。当時、センセーショナルに報道されたのは、慶應出身で東京電力という大企業の会社員(経済分野の研究職)という昼の顔と、渋谷・円山町で街に立って直引きすると娼婦という、昼夜の対比が理由だったようです。

当時はマスコミ取材にプライバシーやコンプライアンスが無く面白がって書き立てる時代ですし、そもそも被害者は1986年の雇用機会均等法前に社会人となって18年以上たってるわけで、同期入社に女性が少なく寿退社も当たり前の時代では「アラフォー会社員の女性(総合職)」自体がとても珍しかったこととも関係してるでしょう。

 

「グロテスク」は上下巻に分かれており、上巻は被害者が高校時代を過ごした「Q学園」での生活や出来事と内面描写に、ほとんどの筆が割かれます。被害者女性は実際に、高校から慶應女子に入学して大学まで進んでいるので、この物語に登場するQ学園のモデルは慶應女子高であることが示されてるわけですね。

体育の授業で必須のリトミック、小学校・中学校からの内部進学者と高入組との空気感、体育会の幅のきかせ方から同学年だけでなく上下の学年での強固な繋がり。物語で描かれているのは作者による創作、つまりフィクションの世界です。

 

とはいえ、身体的な暴力行為ではないものの、直接手を下さないけど確実にメンタルを削られる言動(語り手のうちの1人である「わたし」はQ学園に高校から入学し孤高を保とうとしたがうまくいかず、体育の授業でクラスメイトに「ダサい、ビンボー」と言われて泣く)でイジメの対象ではあった描写は、多かれ少なかれ、どこの中学高校でも実際にあったことではなかったでしょうか。

 

ふと、さかなクンの「広い海へ出てみよう」を思い出しました。

 

上巻の高校での人間関係の描写に自分の中高時代を重ねて陰鬱な気持ちになりつつもページをめくる手は止まってくれません。下巻を読んでたら、中学校高校の息苦しさの機序そのものズバリを中高の先生(登場人物)に語らせる箇所がありましたので引用します。 

※私立の中高一貫校の科目担任教師は、担任する学年とは別にほかの5学年の科目を教えることも多く、40年ほど勤め上げるので親と子で同じ担任ということもあるほど。毎年度ほぼ同じ内容が同じ人物によって繰り返されるので、そのせいで生徒からすると傾向と対策が非常にたてやすくなります。固有の問題として、ノートの貸し借りという行為が成績つまりテストの出来に直結するようになり、コミュニケーション能力つまり政治力を駆使してノートを貸すよう迫るという押しの強さを内部進学生が外部生に発揮するシーンが多くなるのは、よしながふみ「1限めはやる気の民法」でも描かれています。よしなが先生は71年生まれで都立高校から慶應法学部卒業。

 

▼「グロテスク」下巻P147より引用、生物教師であった木島先生の手紙

生物の個体群というのはとても面白いです。

食物と生活環境さえ整っていれば、個体の数はどんどん増えていきます。このように個体密度が高まることを個体群成長というのはミツル君もよく知っていることでしょう。個体密度が飽和状態を超えれば、今度は個体間の競争が激しくなって、結局は出生率が低下し、死亡率が増加します。個体密度の高まりは、しばしば個体の発育や形態、生理などに影響を与えることは生物学の常識です。(中略)

 

佐藤さんの二重生活も、個体の形質の変化なのではないかと考えたのです。個体密度が高まったというより、同一の生活環境の中に留まる息苦しさ、と言いましょうか。その苦しさが形態の変化を生んだのだと思えてならないのです。(中略)

 

密度が低ければ、生物は単独生活をする孤独相になり、高ければ形態に変化を起こしながら集団で暮らす群生相になる。だけど女生徒の場合は孤独相になり得ない気がしてなりません。生存競争が激しいからです。成績、性格、経済歴な基盤だけならともかく、何よりも容貌という、持って生まれたどうしようもないものが加わるからです。これらが複雑な様相で絡まり、ひとつ勝てば別のもので負けるという激しい競争を起こしていた(略)

語り手であるQ学園の教師の作劇上の役割はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」におけるゾシマ長老といったところでしょうか。

 

タイトルの「グロテスク」は、ルネサンス様式の中の一つである美術様式のグロテスクから発想され、上巻のカンブリア紀の想像図のくだりなどで何度も想起されるように配置されたモチーフなので、物語の主題で「奇妙に変形された肉体」と「人間と生物(を分つものはなんなのか)」であることは間違いありません。

ホモサピエンス=人類を、いかに捉えているかがこの小説のタイトルに回帰していくわけですね。

 

タイトルの付け方にもいえることですが、生物教師の口を借りて、ここまで女性の立場について深く踏み込んで登場人物に語らせることができるのは、桐野夏生その人の技術と、観察眼に裏打ちされた確固たる思想がなしえて届いた頂点です。

まして、舞台装置というか作劇の点でいうと、この物語では被害者をモデルとした「佐藤さん」は主人公ではありません。

 

生まれながらの美をもった「ユリコ/ユリオ」と、頭脳を磨き続けた「ミツル」、悪意で世を渡る「わたし」とあわせた複数の登場人物のうちの1人に過ぎず、彼女たちはQ学園の中高生活のうちのほんの1年ほどに深く交錯しただけで、その後の人生はほとんど交わらずに過ごします。しかし、その「佐藤さん」がなぜQ学園在学中に拒食症に陥り、30代になってから昼と夜との二重生活を送るようになったのかが、他の3人の語りを経て鮮明に、桐野夏生氏の意図を理解できるようになっているんですね。

 

正直、20代で読んだ時とはまったく異なる重さの物語でした。

 

物語の読み手として20代の私から変化があったのは、おそらく私が娘を産んだこともあるでしょうし、もうすぐ思春期を迎える息子を通じて「オスの世界」の輪郭を理解し始めたということもあります。そして、40歳前後って本当になんというか、自分が至ってみて分かりますけど、特に迷いの多い時期ですよね。生殖能力、女性の場合は妊孕性が徐々に失われるからでしょう。

ユリコの息子で、母親の美貌を受け継いだユリオについて、人物造形上の作為で「目が見えない」設定にしたのも作者の意図としては、非常に、非常に業が深い。

 

すこしだけ逸れますが、近年の慶應を頂点とした一貫校をモデルにした創作でいうと、2016年刊行の「あの子は貴族」(山内マリコ)があります。

▼作者/山内マリコ氏のコメント(抜粋)

「下から慶應」がどれだけ特権階級的なステイタスなのか、上京してきた人には感覚としてよくわからない。そういう一部の人たちが、世襲で政治家になって日本を動かすのが「普通」であるのも、地方出身者からすると斬新に思えたのでした。階層の固定化とはこのことか、と。
東京のお金持ちを2年ほど取材して回りましたが、知れば知るほどその世界は、テリトリーも人間関係も狭くてとても保守的。彼ら特有の「地元に居続けてる」感は、わたしがよく知るいわゆるマイルドヤンキー的なものと、根っこの部分は似ている気がしないでもなかったり……。

www.bungei.shueisha.co.jp

 

「あの子は貴族」は、現代に近い分だけもっと物語そのものがライトで、結末にも希望があり、シスターフッドにおける考察は別記事でも書きました。主人公たちが30前後までのストーリーなので、やはり2003年に描かれた「グロテスク」の語り手が40歳を目前にしている年齢という違い、また、抉り出した息苦しさや焦燥感、絶望感とは趣きが異なります。

 

「あの子は貴族」の主人公は実在すると仮定して2023年の今ごろ40歳目前でしょうし、もし「グロテスク」の下敷きになった東電OL事件の被害者が生きていたら、2023年は65歳前後になっているはず。ほぼ親子といってもおかしくないような年齢関係ですね。2作品の違いは、それだけ一貫校を頂点とした社会が、世間が、個人が、絶え間なく変化し続けていることの証でもあります。

「グロテスク」を書いた桐野夏生氏は71歳、近い世代でいうと林真理子氏が69歳、上野千鶴子氏は74歳。一方で、よしながふみ氏は52歳、「あの子は貴族」の山内マリコ氏は42歳。

彼女たちの世代がどのように、1986年の雇用機会均等法から現在までを生き抜いてキャリアを積んだのか。どこかで連続的に振り返ってまとめる機会があれば良いのですが、それはまたの別の機会にしようと思います。

 

とにかく「グロテスク」は、時代を描きながら、時代を超えた名作です、ということが20年の時を経て言いたかったことです。

 

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ちなみに余談ですが、入院した時に気づいた病院の学閥について。

慶應と東大は特に医療系での学閥も強いので、東京に住んでると、街中の病院のロゴの色やデザインを見ただけでなんとなく出身大学が想像ついたりも。

東大出身の方はイチョウのモチーフ使ったり、一方で慶應はペン先という具体的なモチーフを避けつつもインディゴブルーと金の組み合わせを地色にしていたりするので。

 

この色の組み合わせは「グロテスク」のなかで、花形であるチアリーダー部のコスチュームの色としてだけでなく、象徴的な意味をたずさえて出てきますのでお読み飛ばしのなきよう!(ポスターは2015年のもの)

 

さらに余談ですが「ハッピー」が名前に含まれてるクリニックは、東大出身の起業家であり事業オーナーの方(2023年没)がとなえる教義に、開業した先生自身のほかスタッフの皆さんまでがとてもとても忠実な印象ですね。

病院選びの際に参考にしてみてください笑

 

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