実は第2子の産休育休中にずーっと考えていたテーマを、今の段階でできる限りの力を振り絞ってまとめてみようという試みです。
いつか未来の私や息子娘に読んでもらえるよう、私信のようなスタイルでつらつら書き連ねますので、長文や主張が苦手な方はすみやかに回れ右!してください。
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一旦今の時点で、間違ってても恥ずかしくてもいいから自分の考えを吐き出してみようと考えたきっかけは、東大入学式の祝辞です。
そもそもスピーチとして有名なものはほとんど「卒業式」でされたものなのですよね。
Stay hungry, Stay foolish. が代表的。
卒業式の祝辞というのは一般的に、未来ある若人へ希望のメッセージを託すもの。
今回話題になった上野千鶴子女史の祝辞は、入学式でなされたものなのです。
まずは全文をどうぞ↓
全文を読むとよく分かるのですが、これは論争のプロである女史が仕掛けた最高のケンカです。
お祝いのメッセージはひとまず横に置いて、つい先月まで高校生だったボーイズ&ガールズ、そして受験をサポートしてやっと「東大」というブランドを手にして得意満面のイキった保護者、及びその場にいない世の中の人々に、堂々と問題提起という宣戦布告をしたわけです。
・せっかく東大入ったのに自分に関係ないこと言われても困る
・なんで罪悪感を強制されないといけないのか
・お祝いの場なのにお祝いメッセージじゃないのはイカガナモノカ
・東大に入るための努力がどんなものか分かってる?
・自分の知ってる東大はそうじゃない
・東大出てるけど事実と異なる
・入学不正が行われたのは東大じゃない
・社会学の名誉教授なのに統計が分かってない
・一部のデータを切り取って見せてるだけ
・主張が破綻してる。以前の上野千鶴子氏の発言と噛みあわない
・東大女子がモテない?そんなことない。実例がある
・女性だって優遇されてるじゃん
等々、Webの評判を拾う限りこんなところですね。
東大だけでなく東大の外でも、ものすごい反響です。
まあでもですね、こうしてヴァイラルに議論が盛り上がり波及することで彼女の主張は達成されているという見方もできます。
上野千鶴子の祝辞オレは評価する派ですけど、一日経っても賞賛反論混じった議論を巻き起こすアジェンダを設定したのはさすが稀代のアジテーターやなと思う。あと議論がインテリ圏内にきっちり限定されそれ以外にほとんど及んでないのはさすがで、反論するほど本人の意図が達成される仕組みになっている
— 増田聡 (@smasuda) 2019年4月13日
特に感銘を受けた部分を抜粋しておきます。
<一部抜粋>
あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。
まさにこの図でいうと、左端の青いシャツの人物が「東大」。
背丈の低い、つまり自分の努力ではなんともしがたい現状の隣人がいる。
彼は試合が見れないようだ。そんな時自分ならどうする?
そこに存在しているのに、気づかないふりをし続けるのか??
上野女史が祝辞の場を利用して放ちたいメッセージは、多分こうです。
「青いシャツよ、お前の足元のボックスに気づけ。そして、かさ上げされてる事実を見つめよ」
青いシャツ、つまり「東大」と東大を象徴としたインテリ層全体に対しての言葉でしょう。
注意したいのは上野女史は青いシャツに「履いてる下駄(乗っているボックス)から今すぐ降りろ」とまでは踏み込んでいない。そこはお祝いだから配慮したんだと思います笑。
普段なら「下駄を脱がないクソが日本を滅ぼす。みんなで貧しくなろう」とか「下駄が透明だから見えないとか言ってるやつバカなの?ねえバカなの?」とか言い放ってるでしょうね。そういうやり方を辞さない人ですから…。
上野女史のやり方は、たしかに強引です。
でも声をあげること、人に耳を傾けてもらうこと、聞いてもらいたい人にあった話題を選んで差し出す技術。真の狙いを達成するためにこれほど完成度の高い祝辞があるでしょうか?
少なくともその場で聞いていた入学生たちは、どんなに不愉快な思いをしたとしても、この後の人生で上野女史の言ったことを綺麗さっぱり忘れることはできないと思います。
自分のペースで読むより、自分が胸を高鳴らせたシチュエーションで耳と目で取り込んだ情報をいうのはぎっちりと記憶に根をおろしますから。
ここまでくると、ある種の呪いと祝福ですね。
これを「ノブレスオブリージュ」というくくりで整理しようという人もたくさん見かけましたが、わずかに違うと思うんですよね。産まれながらに与えられた特権階級が、自立と自主と奉仕の精神を奨励されるという話とはではないと判断しています。
まあそもそも私たちは「教壇に登っている人の話を聞くことは大切」「話の内容は首尾一貫していて、ためになる訓話的な話である」「そしてあわよくば、自分の学習欲求を満たしたり自分の存在を肯定してくれるものであればなお良い。」という幻想を捨てるべきなのかもしれません。
先生が与えてくれるであろうありがたい話を、口を開けてパクパクしながら死んだ目で待ち受けるのはやめようぜって話です。
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子育てしていると、我が子にできるだけいい環境を与えたいという、エゴめいた感情が生まれます。あの子はお利口、あの子はマイペース。
翻ってうちの子はどうなんだろう?っていつも探ってしまうのが私の常です。
そんな私が親として子どもに見せたいのは、素直さでも努力でもなくて「言葉の力」を操ることなのかもしれません。
だいたい子どもは親のすることを注意深く見ていて、真似したりアレンジしたりして世界の輪郭を探りながら成長していきます。自分の思考を理論だてて組み立て、自分の経験の海からぴったりの表現を見つけだし、それを相手に差し出す。相手の反応や考え方を吸収しながら何百回、何千回と経験を重ねて自分を鍛えていくこと。
それをすることが、まずこの東大祝辞に報いることなのだと、東大出身ではない自分はつらつらと考えるわけです。
まだまだ答えは出てないですが、一旦の結論をメモがわりにブログに書き綴ってきたところで、ひとまず筆を置こうと思います。長々とお読みいただき、お疲れ様でした。
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●上野千鶴子女子を一躍有名にした「アグネス論争」
●東大生による集団わいせつ事件モデルにした作品、ブックトークも話題に
●いわゆる「非エリート」出身の筆者が「エリート社会」を内側から見つめる視点
●人が何をもって「分断」と感じるのか、深い深いリアルです
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